昭和45年8月31日 朝の御理解


御理解第十一節「神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ。」


 「神は天地の、守りじゃから、離れることはできぬぞ。」
 天地の親神様は、天地を、言わば守りをしてござる。離れることはできぬ。天地の中に、住む人間は、皆神の氏子じゃとも仰る。その天地の親神様の、ご守護を受けており、この天地の親神様の、氏子であれば、天地の親神様が、人間氏子の、一人一人の守りをしてくださる。天地を守ってくださり、天地の間に住む人間の、一人一人の、言わば守りをしてくださる。ですから、天地の中には、神様が守りをしござるのだから、困った事などは、あってはならないように思う。天地の親神様が、一人一人守りをしておって下さるのであるから、例えどんな上にも、一人一人、間違いがなかのように思う。

 ところが、天地の中におきておる事柄というものは、様々な、いわゆる天変地変と言ったような、ね、ことが起きたり、また、一人一人の上には、様々な思いもかけない災難があったり、いかにも、神様の、言うなら、守りのしようが悪いように思う。神様は、まあ、そういう、天地を守ってくださっておる神様ならば、もっと都合の良い、悪い事が起こらないようなふうに、守ってくださればよいのにと、いうような気がいたしますですね。
 ところが今申しますように、実際はそうではない。御理解12節に、「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」と、言うようにも、教えておられます。先日ここのところを頂きましたがね。神と見、神と感じる目と心を養う。それが信心だと、このように頂きましたですね。私どもが、なるほど、天地の働きを働きとしてです、天地の働きを働きとして、いわゆる、神恩に応え奉ると言うか、神様がそういう働きをしておって下さるのであるから、その働きに対して、おかげを、働きに対して、私どもは、その働きを、感じる。

 神様のお働きの中には、やはり、天地を丸生かしにしてくださることの為には、暑いこともなかならければならない、寒い事もなかならければならない。又は、甘いこともなかならければならない、苦い事もなかならければならない。ですから私どもが、おかげを受けると言うことは、天地書付にも現れていますように、今月今日で、一心に頼め、おかげは和賀心にありとこう、天地書付のあの、後半のところですね。おかげは和賀心にありと・・・。だからその、例えば、天変地変と言ったような厳しい、事柄でも、これは、神様の、やはりお心なのである。守ってくださっておる、まあそれは一つの、働き、現われなのである。ですから私どもが、神様が、まあ言うなら全知全能であるならば、そういう困った事やらは、起こさなければよいのに、と。と、これはまあ私ども人間の、得手勝手な考え方をするとそういうことになりますけれども、結局、私どもはその神様を神様と認める。神様と信ずる。そういう神様が、氏子かわゆい、という一念で、働いてくださる、その働きを働きとして、私どもが、神様の神恩に対し奉って、報謝の生活をする。いわゆる、和賀心での生活を、求めていく。そこから初めて、神恩という、神の心と言う、そこから分かってきて、神の心が分かってくるところから、私どもがおぼろげながらでも、なるほど、暑いこともおかげだな、寒い事もおかげだな、ということが分かってくる。その、おかげが分かってくる、有難いという事が分かってくる、そこからです、言うなら、神様と私どもの、これは、特別な働きあいと言うものが、起こってくる。神様と私どもとの、特別の働きあい。それを、まあ、あいよかけよと教祖は仰っておられる。

 昨日、東京の、小西すまこさんから、先日から、子供達が夏休みで、自分の里の鳥栖の方へ帰ってきておりました。ここへも、まあちょいちょいお参りをしてまいりました。えー、その、長い間お世話になっとるお礼のお届けと、わずかにの間に、大変、勉強も進み、体も、まあ心なしか、大変、健康そうに大きくなったと、言うようなことを、お礼を言うてありますが、むしろその、親よりもですね、そのおじいちゃんおばあちゃん、または、その叔父さん叔母さん達が、鳥栖の方におるわけです、この子供の為に。な、東京から、言わば子供2人、言わば(あるきにきて?)預かっておる。預かってきておるからですね、まあ、怪我でもさせちゃ、相すまん、勉強も遅れるようなことがあっちゃ、でけん、と特に心を使う。もうこれは親のそばにおるよりも、そうである。おばあちゃんのところに、言うなら鳥栖に帰って来とった方が、かえって勉強もよくできておる。又は、預かっておるのであるから、あの、親が目の届かんようなところでも、責任があるから、特別の心を使う。おかげで、まあ無事に、親の手元に帰すことができた。と言うわけです。

 私天地の親神様の守りじゃと、こう仰るそれでもですね、私天地の親神様が、金光大神に、ひとまず、私どもを預けてくださると言うこと。ね、それをもう少し小さく言うと、合楽の教会で言うなら、合楽のいわゆる教会の守りであるところの私。ね、もりもりの力とこう仰る、その守りの力。いわゆる、ここで大坪総一郎と言う、神様の守りをしておる氏子に、天地の親神様から預けられておるように思う。だから皆さんがよく言うでしょう。ね、どういうことであってもです、すべてが、金光大神の祈りの圏内にあるのである。
 それをもっと身近に言うと、親先生の祈りの中にあるのであるからと、言うでしょう。天地の守り、天地の親神様が、いわゆる金光大神に、託しておられる。又は、金光大神は、その手代わり手代わりであるところの、各教会の先生の、に、信者を預けておられる。そこで、預けられた者としては、それを、間違いなく育てなければならんという、責任をとりわけ感じる。ね、よその人、よその信者のことは、そう念頭にはなかっても、もう、いつもが、私の例えば頭の中を、去来するものは、皆さんの、様々な、おかげを受けなければならないということばーっかりで頭が一杯である。とりわけ、難儀なお取次ぎでもさせていただいておると、もう、寝ても覚めてもその事を考えておる。ね、ですから、私の、言わば、お守りをさせていただいておる、言うならば皆さん。

 ね、そこで、なら、親先生が、天地の親神様の、お守りから、金光大神にうつり、金光大神から親先生にうつる、教会の言わば、在籍信奉者と言うことはです、そこの先生の、いわゆるご守護、祈りの圏内にあるのだ。そこで、どういうことになるかと言うと、なら親先生の祈りの圏内だから、良いことばーっかりしか起こらないかと、都合の良いことばーっかり起こってくるかと、言うと、そうではないでしょう。ね、もうそれこそ取り返しのつかないような事も起こったり、または、例えば私の、祈りの圏内でありながら、例えばこの頃からのように、台風なんかが参りますとです、私も少しうかつにしておったと、この度の台風のことは思わせていただいたが、ね、御信者さんの中に、沢山な、被害を受けた人たちがあると。もうとりわけ、例えば、中島の大和さんのとこなんかは、もう、大変な被害を受けられた。さらに(   ?   )あたりでも、屋根を、西から東へ、吹きほぐような、ひどい被害を受けられた。

 親神様の祈りの圏内にある、金光大神の祈りの圏内にある。それをもう少し、厳密に言うと、親先生の祈りの圏内にある。のにどうしてこういうことが起こってくるかと、そこで、これは私といたしましてはです、本とに、祈りが足りなかったなと神様に、お詫びをさせていただくと、目が届かなかったことを、お詫びさせていただく気持が生まれる。又それを、受けた方の側としては、どういうことになるかと言うと、おきずけを頂いた。神様の、お叱りを頂いたと。ね、親先生の祈りの中にあって、これであるから、もし、信心でもしとらなければどういうことになっておったか分からん、と言うような頂き方。いわゆる和賀心。ね、私和賀心とはそれだと思う。ね、私のお取次ぎの祈りの力って言うものは(が欠けておった?)。ほんとに神様に対しても、御信者に対しても相すまんことであった。

 そういう心が私和賀心だと思う。ね、相すまん。または、ならそれを受けよる者側としては、ただ今申しますような、いわゆる受け方。親先生の祈りの圏内にあってこれなのだから、信心のなかっとったら、どういうことに、目におうておったやら分からんと、言うような受け方。そこにち、和賀心と和賀心の、この、思い合いて言うか、祈りあいて言うか、あいよかけよというものを感じます。ね、その向こうに、どういうことになっておるかと言うとです、

 昨日、大和さんが、お届けに見えまして、ここで、お届けをされておる、二言三言言われたら、こう、ついてしまわれた。どげなんことかと思いよったら、感激してから泣きよんなさっとじゃん。男泣きに。本とに今度の台風で、あのように、家が震えましたが、思うてみますともう、一から十まで(  ?  )神様のご守護の中にあったということが、改めて分からせていただきますと言うて、お礼を言うておられる。それは、いつか体験発表でもされることでございましょうがね、もう本とに、一から十まで、万事万端の上に、神様のご守護なからなければ、このようなおかげになってこないと言うほどしの、おかげの中に、屋根が飛んだり、小屋が潰れたりしておったということが、分かったとこう言う。わざわざその為にですね、わざわざその事を、思えば思うほど、日が経つにつれて、くればくるほど、それがおかげと分かってきた。改めて、言うならば、御礼のお届けをされて、そして、その事のお礼を言うておられます。

 これは久富さんの場合でもそうです。ね、なるほど屋根を、打ち覆いましたけれども、けれども、考えてみれば考えてみるほどです、神様のご都合であったなということが分かり、しかもご都合であった証拠にこのような、もう本とに信心のある者とない者の違いをはっきりここに見せておって下さるほどしのおかげを、感じておられる。そこにです、私はね、金光大神のご守護、いわゆる、特別のお守りを受けておる。いや、親先生の祈りの圏内にあるんだな、ということをです、最高の難儀な、と思われるような難儀に直面してでもです、その後先の事を思うてみると、神様の計らい、いわゆるその微妙な神様の、お手の込んでおる働きにです、感謝しなければおられない、感動、いわゆる感涙にむせぶほどしの、おかげの中にあるということ。

 そういうことになってまいりますと、なるほど、例えば災難とか難儀と言ったようなことも、非常に私どもの上に、神様の思いをいよいよ深く分からせてもらえる。又は、その事によっていよいよ、ご神意を悟った生活ができる。その事によって、なおまた、かつ力もできる、というような、ことになってきておるでしょう。ね、いかに神様がです、もじもじばっかりしてござる、ということではないと言うこと。けれどもその、戦いながらもです、ね、どうぞ、これによって育ってくれよ、これによって、ちを受けてくれよと、これによって力を受けてくれよと言う、神の願いをそこに、見、聞きするような、思いがある。それをです、特別の祈りの圏内、特別のお守りを受けておることを、が、このようなおかげになってくる、いわゆる、信心のある者と無い者は、親のない子と、ある子ほどの違いをそこに感ずる。ね。

 昨日も、おとといから、甘木の教会で、えー、この、小倉(きょうしょ?)管内の、えー、青年の方達が、100名近く、甘木の教会に、一晩泊り込んで、信心の研修をしておられます。ここからも、嘉郎さん、青年会の嘉郎さんと、それから、石井信司さん、から、ふかまっつぁん、4名おかげを頂いております。それに堤清さん。あれはもう、本とに、私、これはもう今も昔も同じです。青年の人たちが集まると、もう、信心の研修というよりも、まるっきり討論会のごたる。まだ本当に神様を頂いておらん、それでもやはり信心はしておる。その、神を、神とは何ぞや、と言ったような、まあ理屈になってくる。ね、天地の親神様が、氏子かわゆいというその、ならば、言うなら、神様が全知全能であるならば、例えばこの腕一本ぐらい、切れても、またこの先に、神様は、切ったっちゃ、後からまた作ってくれるぐらいな力がなからないけんじゃないか、と言ったような、理屈まで飛び出してきたとこう・・・。そらもう、私ども青年時代の時と同じようなことをやっぱり皆、繰り返しておるわけですね。

 だからね、そういうことが分かるということはね、な、今日私が申しておるのもそうです。神は天地の守りじゃから、なら、神様が守りをしてくださっとるなら、それこそ水ももらさんような守りをしてくださってあるに違いないなら、ね、台風やら地震やら、起こさにゃいいのに。と言うのと、ま、同じような感じがいたします。けれども、今日私はそこのところをね、金光大神の手に委ねられ、そして、その手代わり手代わりの手に委ねられ、言うならここで言うなら合楽の、在籍信奉者として、縁を頂いた限り、大坪総一郎という、紙の守りをしておる、言うなら取次ぎ者の、お守りの圏内にお互いがある。ね、その、御守りの圏内であるから、良い事だけしかないということではなくて、と言うて、今私が申しましたような例を持ってお話しをした。

 教祖様、天地の親神様は、おかげは和賀心にあるんだぞ、とこう言うておられる。その、和賀心というのは、例えば今日私、私の祈りが足りないから、こん難儀な事に信者さんがなられたと。親先生の祈りの圏内にあるから、お取次ぎを日々頂いておかげを頂いておるから、このくらいですんだと。思うてみれば思うてみるほどです、ね、そういう、例えば厳しい事の中にも、神様の不思議なまでの働きを、そこに、いわゆるこういうご守護を受けておるということがわかるほどしにある。とても、神様は、どうして俺のところだけこの屋根を吹きほぐようなことをされたかと、言うようなことは、それこそ、ね、言えない、そういう心を私今日和賀心と。いわゆる和賀心と和賀心で、祈りあう、願う、願いあう。

 私どもも、ただ一方的にね、神様が、お守りくださってあるのならば、そういう、ね、な、自分で例えて言うなら大酒大食( 録音ボタン押してしまった )痛めておきながら、神様が守っておってくださるなら、こういう腹痛やら起こさにゃいいのに、と自分のことを棚に上げて、言うたり、又は、ただ、理不尽な事を言うて神様をてこずらせる。困らせるようなことを言う。腕が切れたならば、この腕のでけた、そこの先をまた作ってくれたらいい。何でもできる神様ならばと。ね、と言うようなことをその、話しが出た、とこう言うんです。

 ところがやはり本とに、お話しというものはいつも頂いとかなきゃならん、丁度その、先日、その前の日でした。えー、丁度青年会の、嘉郎さん達と四、五人で、一緒に食事をさせていただく、晩餐を一緒にした。その時に、たまたま何のことからだったろうか、私が、私20年前の、お話をさせていただいておるのを、嘉郎さん、その時に思い出した。
 私が神様からいろいろと、お指図を頂いて、右、左、さあ西へ行け、東へ行けと言うて、私が受けておる時分のことである。ずいぶん神様は私に無茶苦茶仰ったと思うが、また私も神様に、大変な無茶苦茶を、申しましたように思うですね。私がやせ細ってまいりますから、両親が大変心配をする。だから私は神様にお願をした。私がやせますと親が心配をいたしますから、どうぞ、今度帰るまでに私を、ふくふくと、肥えさせて下さい。そういうお願をさせていただいた。ね、それはもう断食から断食、又は一食修行の時分、何にも食べない、もう本とに、肺病か何か患うとる者のように、痩せ、もうあの時分の写真を見ますとそう、もう本とに、突けば折れるような状態。帰ると、両親が心配をする。それで、神様私は、あなたの為にこげな修行をしよるとじゃけん、私を少し親が安心するように肥えさせて下さいっち、と言ったようなことを、平気で願っておる。

 そしたら神様はね、なら散髪に行け、と。その時分私はまだ七三に頭をハイカラしとった。その当時まで。ね、坊主になれと。神様そう言ってますから散髪や行ってから坊主になった。そしたら、私の姿が、鏡に映る。ほら、肥えたろうがと。いわゆる肥えたように見えようが、ということなんです。ね、いかに神様だからと言うて、断食から断食をしとる者に肉をつけてくださることはできん。帰らせていただいたら、本とに両親が、今度はちった肥えたごたるの、っち言うて喜んだ。ね、髪がこう伸んどっと痩せて見える。坊主になると肥えて見えるですよね。もうそれと同じようなこと。

 私が、月夜の晩でした。ある所からある所へこうやって行きよります。私の影が、ながーくこう、影が道に映るわけです。もう行きも戻りも神様、神様、金光様、金光様、また、神様私にはずーっと言うならば、働き続けてござる。いつも何かささやきかけてござる。そういう時代です。神様にしてこんなことも・・、神様、一つ私に不思議を見せてください。今私の姿が、ここに影が映っておる。あの影を消して見せて下さい。と私が・・・。ね、月夜の晩ですから、自分の姿が、影が映っておる。神様あの影を消してみて下さい。たら神様は、消してやろうと仰る。な、これから、あそこまで歩いていけとこう・・・。私は本とに胸がドキドキしましたですね。神様が、本とに私のこの影を、どんな風にして消してくださるだろうかと思って。

 そしたら、丁度、ある家の前までまいりましたところが、やはり、家の影がこう道に映っておりました。そこまでまいりましたら、なるほど、私の影が消えとる。影の中に入ったからです。ね、ほら消えたろうがと。まあ笑い話のような話ですけれどもね、そういう事もあったという話しを私が、嘉郎さんたちに、四、五人に話したんですよ。それでその、まあいろいろと、そのやかましゅう、神様がね、その、いわゆる今日の御理解じゃないけれども、お守りをしてくださっておるならば、まちっと都合の良い守りをしてくれ。人間が不調法して例えば手を打ち切っても、またその先に手を作ってくれるような事をしてもいいじゃないかと。神様がどういうことでもできると、言わば豪語してござるのだから。と言うようなことをです、私ども神様に言わば言いがかりを付けるようなことを、私の、その事のそうである。ね、なるほど、この神様は、道理に合うたことしか、教えてくださらんし、おかげとてもです、道理に合わなければ、おかげにならないと言うことをです、教えておられる。と言う説明をしたら、もう一言もなかった、と言う話を昨日しておりました。

 いわゆる、神は天地の守りじゃから、離れることはできぬ。もうこれは、いわゆる、お道で言う、天地金の神様という、神様の、いわゆる神観。ね、御理解10節から12節までは、お道で言う天地金の神様とはこういうご性格の神様だということを、ここに御理解くださってある。だから、特に私が今日皆さんに分かっていただきたいことは、天地の神様のご守護を受けておるということは事実である。それを、金光大神に委ねられ、そしてまたここでは、合楽の教会長である私に、委ねられ、そこに私の祈りの圏内、そこで皆さんがだんだん、分かってくれば分かってくるほど、親先生の祈りの圏内で起きた事であるから、神様のご都合に違いはないと、これはもう達観と言うよりもですね、あの、どう申しましょうかね、本とに親の心が分かっておる子供の姿勢だと思いますね。ね、子供が言う事をきかん。で叱ると。俺のような言うこときかん者をお前が生むからくさ、と言うてその、親に逆ねじを食らわせるような、子供がおる。そこんところを、信心の道理を聞き、教えをいただかさせてもろうてです、親には親に都合があろう、神様には神様のご都合もあろうと。と神様の、言わば心を恩ばかっての、生き方。そういう、言わば生活を、私信心させていただく物の姿勢であり、生活である。それがだんだん身についてくる。
 親先生の祈りの中に起きた事であるから、ね、これは最高のおかげとして、頂けれる実意さ。またその受ける心が和賀心。その和賀心にはです、昨日大和さんが、それこそ、男泣きに、感涙を見せて、お礼を、お届けをしておられる。それを、どういうことかと言うと、ね、もうほとんどの屋根が、住まいの方の屋根が飛んだり、または大きな倉庫が倒れてしもうたりというようなことをです、涙が出るほどのありがたさを持って、神様にお礼を申しておられるというのですから。ね、なら話を聞けば聞くほどに、なるほど神様のこういう事の中ににでもこのような、手の込んだご守護があっておるんだな、働きがあっておるんだなということをです、感じ取る事ができるから、有難いのであり、だから、また次のおかげが展開してきておるのである。

 ね、久富さんの場合でも同じことである。神は天地の守りじゃから離れることはできぬ、その天地の守りをしておられる、言わば、生みの親の天地の親神様がです、言うならば、ここでは大坪総一郎に預けられたようなもの。それは、昨日、小西の子供達が、ね、お母さんの里である、里に、夏休み中預けられておった。ね、預けられておった、東京におるよりも、勉強がようでけておる。東京におるよりも、安全にです、婆たちやら、叔父やら叔母達が、守っておってくれておる。ね、その、そういう私は、道理の上に、立つ御理解じゃなかろうかと思うのです。ね、ですから、これは、もう四角四面にです、こう、ああ、と理屈で分かる御理解じゃない。日々です、教えに取り組ませていただき、(  ? )分からんけれども、教えに取り組ませていただく信心の稽古をさせていただいておるとです、なるほど、神様は天地の守りじゃなあ、離れなさることはできんのだなあ。神様のご守護をこのように受け、受けておるんだなということが、分かってきて、なるほど、暑いのもおかげならば、寒いこともおかげである。ね、たまにはひどい、天変地変と言ったような、大変な事もあるけれども、それとてもです、已むに已まれん、天地の親神様の働きの、一部であるということが、分かってくるようにならなければ、金光様の御信心が、分かったと言えないと思いますね。どうぞ。




                                                    05 02 03 kayotaro